ベトナムはホーチミンで、誰もが知る「Pizza 4’Ps」ーーー。
その4P’sがまだ日本人街(レタントン通り)に1店舗だった頃、日本から外食関係者がホーチミンへ視察に行く際、真っ先に名前が挙がる視察候補店があった。それは日本人街から離れた、マックディンチー通りの突き当りにある「大阪屋台居酒屋 満マル」である。
ガラス張りの窓、ドアを開けて一歩店内に入るとベトナム人スタッフが一斉に声を揃えて「いらっしゃいませ!」の掛け声、ベトナム人で賑わう店内、日本から来た外食関係者は驚くわけである、「日本の居酒屋がそのままホーチミンに再現されている!」と。彼らはベトナムマーケットの魅力を感じ、胸躍らせながら日本へ帰っていった。
そんな「満マル」を仕切る店長は、当時若干23歳と、まだまだ青年の野口貴史氏。
海外のこの地で、しかも日本人街を外したエリアでこの空気感を作り出した、末恐ろしい若者がいるものだと、外食関係者のみならず、在住日本人の誰もがそう感じた店長だった。あの店を見て何社がベトナムに可能性を感じ、海を渡ってこの地へ来たことだろう。
しかし、野口氏は突然ベトナムから姿を消したのだ。
あれから約2年、彼は東京に居た。今回はそんな野口氏がベトナムに行きつくまでから繁盛店を作り上げた秘話、更に日本に帰国した本当の理由を赤裸々に語ってくれた。
俺たちは世界に行くんや!
鈴木
本日は貴重なお時間頂きありがとうございます。せっかくですので、野口さんが満マル(イートファクトリー)に出会うまでをお教えください。
野口氏(以下:野口)
よろしくお願いします!高校卒業後、イートファクトリーで働きながら警備員をやってました、朝8時~17時が警備員、その後にイートファクトリーが運営する「大阪新世界 やまちゃん」で18時~0時ラストまで。20歳の時、イートファクトリーの山口社長に「社員で働いちゃいな!」と言っていただき、アルバイトから社員に昇格したんです。
鈴木
元々アルバイトで働いていらっしゃったんですね!
野口
そうなんです、当時は朝からの警備員業務が終わって、「やまちゃん」で働き、賄いも食べ終わった勤務後は、朝まで店舗の皆で海行ったり、飲みに行ったりで、常に動いてました(笑)
鈴木
社員になると心決めたポイントはなんだったのですか?
野口
社員になろうと心に決めたポイントは、当時働いてた社員の方々がとってもカッコよくて、輝いてたんです。お店の為に、お客さんの為に本気になっている姿を見て、自分も同じように輝きたいって思ったのが大きかったです。お店の為に本気で言い合える環境で働きたいと感じました。店長みたいになりたいって思ったんです。
鈴木
その後すぐにベトナムに移動されたんですか?
野口
いいえ、最初は島根県の米子の店舗へ配属され、その後、大阪の天神橋筋5丁目店や鳥取市の店舗など、複数のオープン時のヘルプに出向いてました。僕が選ばれてたのは単純に、若いし、声デカいし、体力あるよな!って理由でした(笑)
2週間ごとに違う県にいるなんて事もありました。翌年、21歳の時、島根の出雲店で副店長の役職を頂きました。とんとん拍子ですが、22歳の時に、元々アルバイトで働いてた米子店で店長として抜擢されたんです。
鈴木
島耕作も嫉妬するスピード出世ですね。あれ、まだまだベトナムの香りがしないのですが・・・。
野口
実は入社したての頃、社長に「貴史、俺たちは世界に行くんや!」って言われてたんです。その時は何言ってるんだろ??って思ってました。そりゃあ、当時はまだ日本で2店舗しか出店していなかったですしね。なので正直真剣には考えてなかったです。でも、「はい!」って二つ返事をしたのは覚えてます。
その時のやり取りを覚えていて下さった社長が、ある日の店長会議で突然「貴史!そろそろ行くぞ!」っておっしゃって下さったんです。僕はすっかり海外の話なんて忘れていた頃です。なんせ3年前の話でしたし、「行くってどこに!?」って聞いちゃいました。
ヒントはバイクがいっぱい走っている写真と、南の方って方角だけで、「沖縄に転勤ですか?」って聞いたら、「もっと南だよ!」って。沖縄より下・・・島・・・なわけないよな・・・。そこで気が付いたんです。海外か!と(笑)
鈴木
そこがまさかの東南アジアで、更にベトナムだったということですね!社長はなぜ数ある国の中でベトナムを選んだのでしょう。
野口
僕も最初は何でベトナム!?ってビックリしました。しかし、社長はベトナムの若い力を感じ、今後伸びると見越した様でした。実際にGDPなどに関しても勢いが凄いと。
ベトナムの他にもバルセロナなどにも視察しに行っていた様ですね。視察の際は1日中ベトナムの隅から隅まで歩き回って、ここで満マルを開けばお客さんが来るイメージが湧くし、必要とされているという声が聞こえたようなんです。可能性を感じたとおっしゃっていました。
ベトナムを潤わせたい
鈴木
ベトナムに渡航してからオープンまでのお話をお聞かせください!
野口
まず決まっていた事は、満マルをオープンさせるということと僕の家のみでした(笑)
2014年にベトナムに行って、半年はオープン準備をしていました。とはいっても、右も左も分からないので、まずはベトナム語を学べる語学学校に通って、当時からレタントン通りにあった「炉端あん」さんで2か月くらいアルバイトで働いていたんです。後は、社長と同じようにホーチミンの隅から隅を歩きまくりましたね、暑かったなあ(笑)
社長からは、「日本人の知り合いを100人作ってコミュニティーを広げろ」というミッションもあったので、サッカー部に入ったり、積極的に飲みに出てました。最初はベトナムの物価なら3万円くらい握りしめて行けばいいかな?なんて思ってましたけど、実際全然足りないので焦りましたよ。ベトナム料理などは安くても、日系レストランは金額的にそんなに甘くは無かったですね(笑)
鈴木
何もない白紙の状態から始まったんですね!お店の事について固まってきたのはどの位からだったのでしょう。
野口
2か月後くらいに一度マカオに行って、F1のイベントで屋台式の炭火焼きをコンセプトに1か月間出店しました。そろそろ本格的に稼働しようと再びベトナムに戻り、社長も一緒に20件くらいの物件内覧をし始めました。その20件の中の1件が1号店になったというわけです。
正直僕はイメージが湧かなかったです。自分の知り合いがやっているお店はレタントン通りにある日本人街が多かったのに対して、社長が選んだ物件は全然違う場所だったからです。しかし、その後そこを選んだ理由が分かったし、自分でも納得しました。
鈴木
どんな理由だったんですか?
野口
社長は当初からターゲットはベトナム人向けのお店にすると決めていたんです。
日本人を幸せにしたいのであれば日本でやればいい、僕たちはベトナム人を幸せにするんだ!と常におっしゃってました。「ベトナム人の所得を上げたい。この国を潤わせたい」という想いがあったんです。当時のベトナム人の1か月のお給料は月に250USDとかで、「あんなに頑張って真面目に働いているのに、このままだと報われない」っておっしゃってましたね。
最初は決まった物件の何が良いのかすら分からなかったんですが、物件の向かいのレストランでピーク時間帯にお店の前を通るバイクの台数は数えましたところ・・ベトナム人の方たちのバイク通行量がえげつなかったんです。これならしっかり自分たちのターゲットに向けてお店を造りあげられるなと確信しました。
白紙から始まったオープン準備
鈴木
なるほど。って、台数を数えていたって、凄いですね!努力家なのがよく分かります。
野口
もはや自由研究ですよね(笑)その後からオープンまでは全て白紙からのスタートだったので、一言じゃ収まり切れないほど大変でした。まずはベトナム人の料理長と、日本語が話せるスタッフを採用して、料理長は本物の満マルを知ってもらうために、日本に修行しに行ってもらい、その間にメニューやコンセプトを考え始めたのです。
▲毎日深夜までお店について考えていたという。
鈴木
えぇ!?会社からある程度決められていたりしなかったんですか?!
野口
メニュー構成・レシピ・価格設定・業者探しなどなど、全て0から作り上げました。社長は「貴史が現地にいるんだから、ベトナムの事は1番よく知っているだろう、ベトナム人の生の声を聞けるのは日本にいる僕ではなくお前や。」とおっしゃっていただきました。
それからは必死でした。Google翻訳持ってベトナム人が集まるような所に行っては、聞き込みしまくってました。基本的には日本のコンセプトと変わらず、大阪料理を海外にPRするという目的もありましたので、串カツで攻めていこうという軸になりました。当時ベンチマークしていたのは「北海道幸」さんです。しかし、幸さんより気軽な雰囲気でワイワイガヤガヤな大阪らしい雰囲気と当時のベトナム人の所得でも週に1、2回来店頂けるようなお店にしたかったんですよね。単価を抑える為に、出来るだけ全ての食材を現地で揃え、どうしても揃えられない物は代用して日本風に手を加えて調理を施してました。でもそれがベトナム人に受け入れてもらえるのかと、不安で不安で仕方なかったですね。
鈴木
いよいよオープンが近づいてくるわけですが、大々的に告知などされたのでしょうか。
野口
いいえ、facebookなどのSNS、チラシなどでの告知は一切していなかったですね、ただ先ほどもお伝えしましたが、店の前の交通量がかなり多いので外壁にドデカく「Coming Soon!!!」という打ち出しをして、自然に目につくという意味では告知になっていたのかもしれません。
イメージ通りには行かない現実。スタッフに「想い」を伝え続けた。
鈴木
確かにあの通りは目に付きますよね。さあ、遂にオープンですが・・・初日から今みたいにターゲットであるベトナム人を獲得出来たのでしょうか?
野口
最初は知り合いが来てくれたりと、実際は日本人が8割、ベトナム人が2割といった形でした。とはいえ、初めは2階を閉めて、1階でディナーのみの営業をしていたんですが、その60席はオープン当初から埋まっていました。もちろん満マルのターゲットはベトナム人でしたが、やっぱりお客さんが来てくれたのは嬉しかったし、正直ホッとしました。現地在住の日本人の方は、新店舗に興味を持って真っ先に来てくださったのだと思います。
鈴木
ということは、満マルさんが最初に描いていたターゲット比率ではなかったということですよね。今や現地のベトナム人で賑わっている印象がありますが、オープンしてどの位で比率が変わっていったと感じましたか?
野口
そうですね、半年くらいでしょうか。オープンして、日本人が8割入ってる店内をバイクで通り過ぎるベトナム人が、日本人で溢れているということは、日本人が認める本物の日本食のお店なんだ!と思って頂けたのだと思います。そこから実際に来店して、体験して頂いて、徐々に増えていったイメージですね。
エルガウチョなども同じではないでしょうか。欧米の方たちに人気があって、それを見たベトナム人・現地在住の日本人が「本物」と認識し、来店してみる。理想の形ではありましたね。
鈴木
繁盛店と呼ばれるようになるまで、並大抵の努力では無かったと思います。成功の秘訣をお教えください。
野口
シンプルに「想い」だと思っています。幹部のメンバーには毎晩想いを伝えていました。その日の営業のこと、これからの事、会社全体の事。とにかくギャップを埋めていくようなイメージです。パイオニアとして日本から来たのは僕一人でしたので、社長の想いや、ベトナムでやっていく目的をしっかりと伝えベクトルの方向を合わせていった事が大きかったと思います。そのためにも、日本では当たり前かもしれませんが、「ホウレンソウ」を徹底させていました。どんなに小さな事でも把握できるような仕組み作りをしましたね。例えば、オペレーション中の分業制も1つです。
ミスをミスで終わらせない
鈴木
分業制とは、ホール、キッチンとかということでしょうか?
野口
もちろんそれもありますが、ホールに関してはもっと細かく分けていたんです。例えばお客様からオーダーをもらう人・それをPOSで打ち込む人・デシャップで料理を運ぶ人・レジでの会計係・・・と、その日のセクションを事細かく分けていました。
鈴木
その日によっては、POSに注文を打つ専用の人が現れるということですか!?これまたなぜ・・・?
野口
ベトナム人に合わせたオペレーションにしてました。どこで誰がミスしたか、しっかり追って、改善出来るようにです。人間なのでミスをしてしまうのは問題ではなく、そのミスをグレーな状態で終わらせてしまうのが1番良くないと思うんです。担当制にさせることで、隠す事も出来ないですし、より責任感が強くなりますよね。更に、1つの注文のミスが満足度を下げてしまう要因でもあるので、お客様に注文票を記入してもらう様式にしていました。万が一「頼んでないよ」と言われる場合は、注文票を見返せば真実が分かりますからね。
鈴木
営業していくと共に改善してその形になったなら、驚かないですが、最初からそのスタイルを徹底していたのは凄いですね。
野口
ありがとうございます。そこはオープン前から決めていたことですね。後は、BGMや空調、キッチンとホールの雰囲気、お店の雰囲気には常に気を張っていました。お客さんと僕たちのテンションの波長が合うように心がけてました。当時ホーチミンには、大衆系のお店が満マル意外無かったので、日々試行錯誤でした。
鈴木
そういった意味では、ベトナム人のお客さんも居心地が良かったのかもしれませんね。ちなみに多くの方が満マルに行って視察されたかと思うのですが、どういったことを聞かれたんですか?
野口
そうですね、確かに多かったです(笑)視察に来る方は大体メニューを全て写真で撮ったり研究されてました。来る方は飲食店だけではなく、美容室の方など、違う業界の方もいらっしゃいましたよ。直接お話する機会があった時は、「どうやってベトナム人を教育してるんですか?」などの質問が多かったですね。「毎日戦ってます!」って答えてましたけどね(笑)あとは、今でも業者のことなどは聞かれたりします。正直に全部話しますね。ベトナムが潤えば、なんでも良いと思ってます。
ベトナムを出た本当の理由
鈴木
今でもその想いは変わらないのですね!?なのにベトナムから退いたのはどの様なタイミングだったのですか?
野口
3年目くらいから、仕事の面で自分の成長が感じられなくなっていったんです。26歳だった当時、このまま30歳になる自分を想像出来なくて不安だったんです。0から何かに挑戦してみないと、何も成長しないな、と感じました。19歳からお世話になっていて、満マルしか知らない状況だったので、一度外に出て見たいという気持ちもあったんです。
鈴木
ポテンシャルが凄まじいですね・・・。野口さんがベトナムでやり残したことと、やり遂げた事はございますか?
野口
やり残したことは独立です。3号店を任されていたんですが、その時のままの自分だと繁盛させられないなと感じていたんです。そういう意味では、自分で1から経営するということは実現できずでした。
逆にやり遂げた事としては、自分が離れても、スタッフだけで店が回るようになったことだと思います。日本人が店に立つことも大切ですが、日本人がいなきゃ回らないお店では意味がないですからね。
鈴木
なるほど・・・。初期から幹部の方とコミュニケーションを取り続けていたからこそ実現できたことかもしれませんね。
野口
そうかもしれません。少なからず文化の違いはありますからね。スタッフが休憩時間で使う個室の部屋の前の靴をキレイに揃えよう!ってのに1年かかりました(笑)日本人にとっての当たり前が当たり前ではなくて、最初は全く理解してもらえなかったんですが、伝え続ければ分かってくれるんだって、泣きましたね・・・。
日本とベトナムの架け橋に
鈴木
心が通った瞬間なんですね!それでは、今の、そして今後の野口さんの展望をお教えいただけますか?
野口
営業職として飲食店の総合支援をする「株式会社フードコネクション」に所属しています。全てが初めてなので、正直大変な事も多いです。改めて26歳の自分は甘えてたなとひしひしと感じています。今は、より自分が成長しているのを感じています。
僕は日本とベトナムとの架け橋になりたいんです。30代前半までには、日本でもベトナムでも独立してお店を持ちたいと思っています。そのために今は必死に勉強中です。
自分の理想と現実を徐々に埋めて、早くベトナムに恩返しできるくらい大きな人間になりたいと思っています!
鈴木
野口さんのお店、行ってみたいのでぜひ、ベトナムでお願いします(笑)私もベトナムと日本の架け橋になりたいと思っていますので、共にフードコネクションで成長しましょう!本日はありがとうございました!
あとがき
そう、消えた天才!いいえ、“消えた努力家”は現在同僚として一緒にフードコネクションで働いている。
当時23歳だった若い青年は、「ベトナムを豊かにする」ことを掲げたイートファクトリーに賛同し、異国の地で現地スタッフにその「想い」を伝え続けた。その結果あって満マルは、見事にローカルターゲットにビジネス展開を成功させた。日本で滞在経験のあるスタッフからも「日本で感じた接客をベトナムで行い、お客様を笑顔にしたい!」と共感してくれ、その環境の中で切磋琢磨しながら年々成長。同時にお店も繁盛店へと成長していったのである。ベトナムを離れた現在でも、愛するその地を豊かにするため、自分自身を更に磨き上げ、貢献したいと語った彼の目は、真っ直ぐで、輝かしく、「きっと彼ならやってくれるだろう」と自然に感じるものであった。彼が30歳になるまで、時間は十分にある。若さは財産と言ったものだろうか、その間にフードコネクションでどれだけ成長を遂げるのか、今から楽しみである。いつの日か、フードコネクションメンバーとしてベトナムにも!?今後の彼の活躍にもご期待あれ!
フードコネクションでは、ベトナム進出・出店のサポートも行っております。ご興味ございましたら、お問い合わせお待ちしております!オレンジのボタンをクリック下さい↓↓
※上記に掲載されている情報は、掲載日(2020/09/11)現在の情報です。ご覧になった時点で内容が変更になっている可能性がありますので、各店舗へお問い合わせください。
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